“Can you do it?”

日本語にすれば「できますか?」という意味になるが、日本語の「できる」と英語での”can”には文化的な違いがあるように思う。そこで今回は、海外で言う“できる”の概念と日本との違いを探ってみよう。


 

日本と海外では違う 「できる」の概念

海外で生活する日本人が、“できる”かどうかが試される場面。それは、現地の言葉(外国語)を話す時だ。そして現地人に話すときよりも、日本人がいるところで現地語を話すときのほうが数段プレッシャーが高い

自分と同じように海外で暮らしている日本人と外国語で会話しなくてはいけない場面というのは何とも居心地が悪いものだ。話している方は文法や発音のミスがないかが気になって緊張し、聞いている方もそんな話し手の緊張が伝わって何となく張りつめた空気がその場を包む。

昨年、オリンピック招致を目的とした都知事の英語で書かれたツイートが話題になった。彼のツイートは英語の綴り、文法の間違いが多かったわけだが、英語の専門家(日本人)はこれに黙っていなかった。慶応大学の日向先生は誰かに添削してもらって公表すべきだと指摘していたが、実際に在日イギリス大使が彼の英語の間違いに憤慨したかと言えば、疑問である。

日本人は外国人が話す日本語には甘いが、日本人の話す英語(外国語)にはとても厳しい。一度“できる”と言ってしまうと、ミスは許されなくなってしまう。「日本人がいないところでは英語を普通に話せるのだが、一人でもいると話しづらい…」と感じている人も少なくないのではないか。

かくいう私も、日本人の前で英語、フランス語を話すのが苦手だ。できれば避けて通りたいとすら思っている。「私は英語(フランス語)ができます!」と言うよりも、「まだまだです」と謙遜しておく方が気が楽だし、変なプレッシャーを背負う必要もなくなる。

しかし同時に、謙遜して「できない」と言っていることが語学上達の妨げになっているのではないかと思うこともある。語学習得で、特にコミュニケーションにおいては、自信をもって話すことがとても大切だからである。

自分で英語ができないと思っている人が英語を話せば、自然と声は小さくなるし、はっきりと発音しなくなる。そして何より口数が減ってしまい、周りの人には「あの人は英語がわからないのね」と勝手に判断され、ますます自信をなくすというスパイラルにはまってしまいやすい。

日本人は英語が話せないとよく言われるが、これはこうした日本人の「できる」、「できない」の概念が関係しているのではないだろうか。それでは、外国人の言う“できる”とは何を指すのだろうか。

 

外国人から見た日本語での「できる」の意味

謙遜しすぎる日本人 「できる」という言葉に見える日本と海外の違い


「日本人が言う、“できる”ってレベルが高いんだね!」

日本へ留学した交換留学生の友人が感心した様子でこんなことを言っていた。彼は留学先の日本の大学で水泳部に入ろうと思い、体験入部をした。そこで自己紹介をした時に日本人の学生に「泳げるの?」と聞かれたそうだ。

外国人の彼は「何でそんなことを聞くのだろう?できるに決まってるじゃないか!」と思ったという。泳げない人が水泳部に入りたいと思うわけがないだろう?と不思議に思ったそうだ。

しかし、30分後に日本人の“できる”の意味を知ったという。自信満々で「もちろん泳げるよ!」と答えた彼は、その後50メートルのプールを何十往復もさせられてやっと気がついた。

「彼が言った“泳げるの?”っていうのは、○キロとか、そういうレベルでできるかどうかを聞いていたんだ!」

彼は「泳げるの?」と聞かれ、素直にできるかどうかを聞かれたと勘違いしたが、これが日本の“できる”の概念と他の国との違いだと思う。日本で言う“できる”というのは、いつも言外に「高いレベルで」という意味を匂わす。もっと言えば、できるかどうか聞かれるのは、自信があるかどうかを聞かれるのと等しい。単にできるかどうかを表す英語の“can”とは違い、日本語の“できる”は「自信を持ってできると言える高いレベル」でなくてはならない。つまり日本では、そう簡単に“できる”と言えないということになる。

 

謙遜しすぎる日本、プラス面とマイナス面

なぜ日本では「できる」と言えないか。これは、謙遜を美徳とする日本の文化や集団主義社会で円滑な人間関係を保つように努力した結果だと言える。日本人がそう簡単に“できる”と言わなかったから、日本は経済的にも文化的にも発展してきた国となれたとも言えなくはない。

日本の製品は品質が良く、細部までよくできていると世界に認められているが、これは日本人が安易に「できた!」と思わず、「まだまだこれから」の精神で頑張ってきたおかげだ。

とはいえ、謙遜の文化はいいことばかりではない。謙遜がエスカレートして「自虐」としか思えないほど謙遜しすぎるようになってしまったら、問題である。「できない」と自分を責めることで責任を回避していては、発展はおろか衰退していくのみである。

だから、日本語の“できる”の意味はもう少しシンプルになってもいいのではないかと思う。

「できる」と口にするだけで、勇気とやる気がわいてくる。今は十分にできなくても、「私はできる」と思って行動すれば、いつか本当にできる人になっているかもしれない。

謙遜と自虐は全くの別物だ。自分も含めて日本人全体が、もっと明るく前向きに「できる」と言えるようになれればいいなと思う。

 

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5 コメント

  1. なるほど。と思ったけど
    この記事を読んだ後でオバマ大統領のキャッチフレーズ「Yes, we can!」を聞くとなんか違った印象になるな……
    大衆が「Yes,we can!」と力強く叫んでいるのを見たら今度から「そうだ、できるよ!(そこそこなら!)」って言ってるのかなと思いながら見てしまいそうだわ……そりゃアメリカ変わらないな……と思うよな……

  2. アメリカの小説家の翻訳本を読んできたが、贔屓の作家の翻訳が出なくなったので英語版を読み始めたら…育ちの悪いアメリカ人のしゃべりはBe動詞めちゃくちゃ表記(I is ~、Was they ~) 読みにくくてしょうがない。

  3. 英会話の能力に限って言えば、大半の日本人の「自分は英語ができない」という評価は適切だと思います。
    私もそうですが、満足に道案内すらできませんからね。

  4. 英語のcanって、(ドイツ語のkönnenも)確かに日本語の「出来る」とは性質が違うように思います。
    日本語で出来るといえば、ある事柄を達成するのに”充分な能力”がある、という意味ですが、英語やドイツ語のcan、könnenは、単にある事柄を達成できる”可能性”があるという意味でしかないからです。
    残念ながらフランス語など他の言葉での比較は私にはできませんが、おそらくヨーロッパ圏の言語の「出来る」は大体ドイツ語英語と同じなのではないでしょうか?

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