このブログを通して、読者の方からこのようなご指摘を受けることがあります。

「”外国人”という言葉を多用されていますが、外国人といっても欧米人だけでなく様々ですし、ひとつにまとめたような言い方をするのはおかしいと思います。」

全くその通りです。このブログでもSEOなどの便宜上、「外国人」を使用していますが、「外国人」という言葉に違和感を感じるのは、筆者も同感です。イスラム過激派を「イスラム国」と表現するのと同じくらいおかしなことです。

よく、「外人という言葉は差別に当たるか?」という議論がされているのを耳にしますが、それ以前に「外人(もしくは外国人)」という言葉の使用方法に問題があるのではないかと思います。外国人はOKで、外人はNGという浅はかな問題ではなく、この日本語が暗に含む意味に深い矛盾があると思うのです。

そこで今回は、日本語の「外国人(外人)」という言葉の使い方がおかしいと思うところを3点ご説明します。あなたは、日本語で「外国人」と聞いたときに、違和感を覚えますか?

 

1. そもそもの区分が曖昧

外国人とは、読んで字のごとく「外の国の人」という意味です。しかし、実際に私たちが普段の生活のなかで使う「外国人」には、「純日本人ではない人」というニュアンスを含んでいます。その証拠に、ハーフは見た目がウエンツやベッキーのように欧米人よりだと、いくら国籍は日本であっても、どこか「外国人」として接されてしまいます。両親とも日本人であっても、育ちが外国で、日本語がおぼつかない人も「外国人」に入ります。

日本語で「日本人」というのは見た目が日本人で、日本で生まれ育ち、日本語が流暢な「純日本人」であり、外国人というのはそれ以外の人ということです。しかし、これだと元々の言葉の意味の「外の国の人」とは意味がずれてしまうのです。

そもそも、日本人とは何でしょうか。日本人の両親を持ち、アメリカで育った宇多田ヒカルは日本人ではないのでしょうか。日本で過ごした年月よりも外国暮らしのほうが長い人は、もう日本人ではなくなってしまうのでしょうか。ウエンツやベッキーは外国人で、沢尻エリカや宮沢りえは日本人というのも何だかおかしい区分の仕方です。

日本人、外国人とうまく区分しているようで、結局はそのどちらも曖昧なのです。書類や手続き上、「日本国籍ではない人」という意味で「外国人」を使用するのは理解できますが、普段の生活のなかで「外国人」という言葉を使うにはあまりにも定義が”ふわふわ”しており、国際化が進む現代では「外国人」という言葉自体が時代遅れのように感じます。

 

2. 外国人の多様さを無視

「外国人風メイク」、「外国人風ヘア」、「外国人との恋愛」など、日本のメディアでは「外国人」という言葉に、「白人」を連想させることが多いです。しかし、「外の国の人」が外国人なら、アフリカ女性の縮れ毛も中国人のヘアスタイルも、外国人風ヘアです。インド人の化粧も、アルゼンチン人の化粧だって、「外国人風メイク」なわけです。

日本人以外の人全てを「外国人」という括りに入れてしまうと、それぞれの国の多様性を無視するようになってしまいます。同じ外国人であっても、フランス人とタイ人ではとても違います。同じアジア人であっても、私たち日本人が中国人とは違うと思っているのと同じように、どの国の人も「個としての存在」を認めてほしいと思っています。

「外国人は~と思うらしい」、「外国人には日本の~が珍しい」というような言い方では、日本人以外の外国人はみんな同じ意見をもっているというニュアンスをどうしても含んでしまいますが、実際は(言うまでもありませんが)多種多様です。

「外国人」という言葉を頻繁に使うというのは、それぞれの国の個性や存在自体を無視するということ。外国人という括りではなく、アメリカ人はこう思う、インド人にはこう感じるのような国籍による区別のほうが適切です。

 

3. 日本中心的な概念を植えつける

海外で暮らしている日本人のなかに、現地人のことを「外国人」という人がいますが、これもおかしな表現です。海外では日本人のほうが「外国人」であるにも関わらず、周りの人を「外国人」と言ってしまう…。これは、いかに「外国人」という言葉が「純日本人ではない人」を定義しているかが見て取れるいい例です。

この例からもわかるように、日本人と外国人という区別はどこか「日本中心的」なのです。この区別の仕方だと、世界には私たち日本人がいて、それ以外の外国人がいるというイメージに繋がりますが、実際はどうでしょうか。筆者は、世界にはたくさんの国があり、たくさんの人がいて、そのなかに”日本人”が存在すると思っています。

真の国際交流、異文化理解とは、外国人も日本人もみんな同じなのだと深く理解することです。しかし、「外国人」という言葉は「日本人とは違う」という意味合いを持ち、常に日本人をスタンダードとしている言葉なので、真の国際人を育成する妨げになってしまいます。

 

さいごに

マザーテレサは言いました。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

日本のこの先の運命が偏見やステレオタイプのない国際的な国になり、「外国人」という言葉が死語になればいいなと思います。

 

シェア


返事を書く

 

※ コメントは承認制です
コメント反映までに時間がかかることがあります。予めご了承ください。

12 コメント

  1. 流石に外国人という言葉を死語にするのは難しいですが、外国人=白人みたいな表現や考えは無くした方がいいと思います。

    特に、欧米のもの=日本より優れてるような表現を目にする事も多いですが、全面的に日本より優れてるなんてあり得ませんし、そういう表現ばかりだと無条件で欧米=進んでるという発想になりそうです。

    ウエンツやベッキーが欧米人寄りの容姿かどうかは、あくまで日本人から見た場合の話ですから、実際に欧米人寄りの容姿と言い切るのも難しいかもしれません。欧米人から見ると、白人とアジア人のハーフはほとんどがアジア人に見えると聞きますし。また、同じ日本人から見ても個々人で日本人寄りか欧米人寄りかの判断も異なるでしょうし。個人的に森泉や道端アンジェリカあたりは日本人寄りの容姿かなと思いますが、人によってはそう感じない人もいるかもしれません。

    偏見やステレオタイプは、たとえどんなに国際的な国だろうが存在してると思います。ヨーロッパのジョークには、そもそも偏見やステレオタイプありきで成り立ってるものもありますし。日本では外国どころか国内でも偏見やステレオタイプは多く存在しています。まずは国内でステレオタイプが無くならなければ外国に対して無くすのは不可能でしょう。

    • >欧米人から見ると、白人とアジア人のハーフはほとんどがアジア人に見えると聞きますし。

      それは欧米人によるんじゃないでしょうか。目がちょっと細いだけでアジア人だという人もいれば、白人だという人もいると思います。育った国によって醸し出す雰囲気も変わりますし。ベッキーやウエンツも醸し出している雰囲気は100%日本人ですから、「自分の国とは違う」という意味で「アジア人」だと判断されるかもしれません。

      • もちろん、欧米人によっても判断はある程度異なると思いますが、日本で白人顔だと言われていたハーフが欧米の国ではアジア人顔だと言われる事は良くある話みたいです。ウエンツでも、欧米人寄りどころかそもそも白人の血が入ってる事すら納得できない人もいるようですし。

        昔、TVで故川村カオリを見た時は白人寄りかなって思ってましたが、ロシア人のお母さんと一緒に撮影した写真を見ると日本人にしか見えませんでした。

        黒人ハーフの場合だと、どんなに日本人の遺伝子が強く出た人であっても日本人寄りかなって思える人は稀な気がします。日本人の血が入ってるかどうかすら怪しく感じる人も少なくありませんし。もしかしたら、欧米人から見た場合の白人ハーフもそんな感じなのかもしれません。

  2. まず、外国人という言葉をどういう場合に使うかによると思いますし、それから、日本という国は、国際結婚も普通になってきましたが、基本、移民を殆ど受け入れていない国でもあります。

    移民の多い国では、外国人という表現はナンセンスかもしれませんが、移民の少ない日本では、明らかに日本人では無い容姿をその人の特徴としてとらえてしまうのです。良いも悪いも、150年ほど前まで鎖国をしていた日本人の特徴なのです。
    大半の日本人は、純粋な日本人がどうとか、そんな区別をしているわけではなくて、例えるなら、人の特徴を性別で表現するのに近いような感覚なのではないかと思います。
    私が考えるには、日本がアメリカのように国籍を移民に与えていくような事が無い限り、日本で外国人という表現がナンセンスとなる事は難しいのではないかと思います。

    おそらく、私はわりと日本でも国際化が進んでいる環境にいますが、どれほどの多国籍の外国人に囲まれて生活しようとも、その殆どの外国人が移民ではなくビジターであり、流動的な環境では無理かな?難しいかな?と思えます。何故なら、この土地にずっと住み続ける人の文化や風習がこの土地を受け継いで行くのです。その殆どが日本人なのです。どうしても区別という所に行き当たるのではいかと思います。
    これは3の提議にリンクするのですが、環境が多国籍であればある程、自分の国籍以外の人を表現する場合、外国人と表現せざるを得ないのです。なので、こちらに住む外国人の方も、同じ国の人たちと集まるとそういう表現を使ってます。

    また、多国籍なので、対象者が何人かわからない、覚えない、忘れたので、とりあえず外国人と表現するしかありません。こちらに住む外国人も、日本に来ている他の国の人の事を外国人と表現するしかなかったりします。

    なので移民の多い国と、外国人は多くてもビジターばかりの国で表現の価値観を共有する事は簡単では無いと思います。

    私が第二言語を習得している国も、ビジターの外国人はかなりいますし、国際結婚も多いのですが、移民を受け入れている国ではありません。そして、日本と同様に、その国の言葉で外国人という言葉は普通に表現されています。
    2については、レベルの低い事柄に、いちいち反応すべきでは無いと思います。
    けれども、アメリカ人の特徴だとか、インド人の特徴だとか、そんな国別の細かい特性を理解して会話できる人って、世界中に何パーセントくらいいるのでしょうか? わかっててわざと外国人と表現するなら、悪意を感じますが。もちろん、リリーさんの言いたい事はとても良くわかります。正論だと思います。

  3. 「1. そもそもの区分が曖昧」に対する私の意見なのですが、結局は見た目が日本人ではない相手を完全にシャットアウトしようとするこの国民性だからこそ、「外国人」という意識、言葉を安易に使い続けるのではないでしょうか。

    クリスマス、ハロウィーン、ヴァレンタインなどの欧米発祥の商業的イベントや、洋食、中華料理を日本人の味覚ににアレンジしたりするセンスがある一方で、他民族との共生は嫌がったり、自国に移民を受け入れたが最後、文化が廃れ違う国になってしまうかのように恐れる鎖国根性が染み付いていますよね。

    • ともやさん
      では、今の日本という大地がが多民族との生涯共生を受け入れたとして、どんなメリットがあるのか聞きたいです。
      現在の所、流動的な外国人の滞在は、友情と少しばかりの経済効果を実感しますが、殺人を含む犯罪、不法投棄、借金の踏み倒しのようなデメリットは一般市民感じておりますが、それでも受け入れを拒もうと思うほど、私の付近の日本人、人々は意地悪ではありませんし、持ち込まれる宗教に関しても、寛大に受け入れてると思います。これのどこがシャットアウトなのか理解出来ません。
      ただ私個人は、地元で行く先々のレストランで、外国人客の日本人として不快に感じる粗相をきっと、海外での日本人も、その国の人にとっては不快なのだと思って気を鎮めるように心がけています。
      ですが、この海外の方々が、ずっとこのまま、この町に住み続けると思うとシャットアウトしたくなる気もわからない気はしません。
      レストランで嫌な事は、食べ方が汚い、食べ散らかす。飲食物を持ち込む。当たり前のような主張をする(自分の食生活、文化が店と異なると、店を人種差別かのように非難する)。
      私は、グローバル化すべきは、土地ではなく、人間だと思っています。ですので、日本という土地に過剰なグローバル化を求める事はグローバルリズムに反していると思います。

    • 綺麗ごとや理想論を言うだけなら簡単です。文化の違いを単に着るものや食べ物の違い程度だと考えるのは安易すぎます。人類の歴史を見ても、そして現在の紛争の多くは、文化の違い、価値観の押し付け合い、人種、民族、宗教の対立に起因しているのは明白です。
      ドイツ在住の作家川口マーン恵美さんという方が、こう書いています。
      「人類は皆兄弟というのは利害が存在しない所では容易に成立するテーゼだ。綺麗な民族衣装を着て踊っている姿を見るのはエキゾチックで楽しい。しかし、彼らが経済的負担になり、それが果てしなくつづくとなると関係が変わる。綺麗な民族衣装も、解せない言語も、違う肌の色もエキゾチックなものから不愉快なものへと変わっていく」と。
      30年ドイツに暮し、直接移民問題を目にしてきた方の言葉は貴重です。彼女によると、ドイツでは周辺地域がゴミの山だらけ、大小便垂れ流し状態の、とてもドイツとは思えない不潔な移民スラムが13カ所もあるそうです。
      もし自分の自宅周辺にそうした異民族が大量に入り込み、ゴミだらけにされ、悪臭や騒音になやまされた時、「お前達なんか出ていけ!」と絶対に言わないといいきれますか?自分なら言いますね。
      現在各国で移民反対の政党が支持を拡大させています。これを不寛容だの、排外主義だの言う人もいますが、現実に異民族が流入して、生活が壊されたり、文化摩擦に苦しむ人達がいることを無視しています。
      政治家やお金持ちは移民のいない安全地帯に住めるからいいでしょうけど、現実に異民族と隣り合わせに暮らしている人達とでは、異民族に対する意識が全く違って当たり前なのです。
      外国の料理を食べてり、演劇や音楽を観賞することと、文化や価値観の違う異民族と同じ場所で生活を共にすることは全く別のことであり、分けて考える必要があります。

  4. 古来の日本人は単一民族ではありませんが、多人種でもありません。
    グローバル化というのは多文化主義や民族淘汰の一方的な押し付けではなく、他国の文化を尊重しながら交流することです。
    日本は所謂日本人だけで長いことやってきた国ですから、そんなに目くじら立てて非難するのも可笑しな話ですよ。
    世界にはあらゆる価値観があって良いはずですから。
    「外国人」としての扱いに人権侵害などはありませんし。
    私は海外に行った時は自分がアウトサイダーだという自覚はありましたし、それ相応の振る舞いをして郷に従いましたよ。
    人権論は抜きにして、外国人として扱われることは何ら当然だと思いますが。
    そもそも非難の対象が「日本人は〜」といった一括りの一元論の時点でお話になりませんね。
    日本人だって一枚岩ではありません。
    何が言いたいかと言うと、要は過剰反応だという話です。

    • 私も同じ意見です。日本人の一人としては外国人というレッテル付をして、なんとか心を広く持とうと努力している部分もあると思います。日本には明文化されていないマナーやルールが山ほどあります。それを犯した人が、日本人の場合、完全に村八分、運が良ければ注意を受けます。しかし外国人なら『外国人だからしょうがない』で済ませてしまえます。外国人扱いが嫌だという人はこの細かいルールを全てマスターする覚悟がある、と。素晴らしいですね。出来るなら私は応援したいですよ。先日、駅のキヨスクで白人の少年がガムを買う際、店員に硬貨を投げつけているのを見たり、レストランの隣の席の白人男が足を盛大に組んでこっちに靴裏見せてきたりでイライラしたばかりですからね。外国人だから日本のマナーを知らないんだしょうがないと自分のこころを静めてましたが…

  5. 長年暮らしてる人がいつまでも外国人扱いされて鬱陶しいことやテレビ等を通して広まったアホみたいなステレオタイプを押し付けられてウザいことは分かりますよ
    できるだけウザいやつにならないようにします

  6. 外国人と日本人と関係で以前から思っていたことが一つあります。「もし、日本に徴兵制があったら、外国人は応じるのか?」というものです。それも、イスラエルやノルウェーのように女性も「国民の義務」として徴兵に応じなければならないとしたら、外国人はどう反応するでしょうか?
    外国人は、「自分は外国人だから」といって拒否するでしょう。拒否して当然です。なぜなら外国人は、日本国籍を保有していない、即ち日本国に帰属していないので、日本国民の義務の対象にはならないからです。
    ある外国人は、「外国人も日本人と同じように扱ってほしい」と言っているのを聞いたことがありますが、「日本人と同じ扱いをする」とは、「日本人と同じ責任を義務を課す」ことも含まれるのであって、もし日本に国民の義務としての徴兵制度があったら、「外国人を日本人と同じに扱う」=「外国人も日本人と同じ徴兵義務を課す」ことも正当になります。
    しかし、外国人は応じないでしょう。「日本人と同じ扱いをしてくれ」といってきても、自分に不都合になれば「自分は外国人だから」と自分を外国人枠に閉じ込めて逃げるに違いありません。
    かつて日系アメリカ人が、「アメリカ人」として認められ、受け入れられ為にアメリカのために生懸毛で戦うことによって、アメリカ社会に受け入られ、仲間意識や連帯感、精神的共感を持ってもらえるようになりました。
    言ってしまえば、ある国の社会の一員として、居住する国の国民になど簡単になれるものではないということです。
    日本に暮らし、日本という国のおいし部分だけつまみ食いして、都合が悪くなれば「外国人」という枠組みを利用するようでは、所詮外国人は永遠に外国人のままだということです。

  7. 日本で「外国人など一人も入れてほしくない」と思っている人たちがいたら、おそらく警察官や刑務所の職員でしょう。府中刑務所の囚人の20%は外国人で、国籍は55、使用言語48。つまり、日本で最も国際化が進んでいる分野は犯罪で、最も国際化された場所は刑務所なのです(笑)。
    しかし、刑務官にとっては笑い事ではありません。習慣や宗教、思考回路の違いから外国人囚人同士のイザコザが絶えないそうです。食事もイスラム用やヒンズー用を用意しなければならないし(用意しないと人権団体がうるさい)、対立する民族同士やイスラム教徒とキリスト教徒は分けなければならないので(一緒にすると喧嘩になりますから)、刑務官の過酷な仕事が外国人によって益々苛酷になるわけです。

    上から目線で外国人を外国人扱いする日本人を閉鎖的だ、排他的だと笑うのは簡単です。しかし、現実に外国人を押し付けられ、大変な負担や苦労を強いられている人達にしてみれば、「外国人」は、日本人と異なる対応をしなければならない以上、区別しなければならないのです。それを差別だというのなら、もうどうしようもありません。
    差別主義者だといわれないためには、外国人は腫物で触るかのように、距離を置くしかないのです。

    しかし、こうした問題を見ると、いつも感じるのは、外国人側の閉鎖性、排他性、優越意識が全く考慮されていないことです。その前提になっているのは、日本人=閉鎖的、排他的な島国根性(大体島国根性の定義って何でしょうね。誰か説明できます?)、外国人=開放的、先進的という半ば思い上がった基本前提にあるわけですが、実際は入ってくる外国人側の方が排他的、閉鎖的、優越意識を持っていることが多かったりすることがあるわけです。
    いま欧州を揺るがしている移民問題の本質は、移民達が移民先の国より強い優越意識を持ち、「郷に入っては郷が従え」を寛容と多文化主義の名のもと、他文化を強要していることにあると考えますね。
    結局だから民族や宗教を混ぜると摩擦や軋轢が生じ、最悪の場合戦争へ発展する例が歴史上数多くあるわけです。となると結局、「違いを認め、それぞれの文化や価値観を尊重して共存する」としたら、お互いに縄張りを決め、可能な限り干渉せず、交流は必要最低限度に抑えることでしか、人類へ平和と秩序を保てないと思います。
    そろそろ、いったい何のために国があり、国境があるのか考え直す時期が来ていますよ。