「自分は正しい」があなたと、世界をダメにする。
写真:Flicker - Amit Gupta

 you shouldN’T judge.

国際交流の場で、必ずと言って注意されることがある。それは、”You shouldn’t judge other people.”という言葉だ。直訳すると、「他人を判断すべきではない」という意味だが、ここでいう英語のjudgeには「自分の物差しで」という前置きがつく。つまり、「自分の物差しで他人を判断するな」ということだ。


筆者は学生の頃、外国人留学生の日本語のクラスを手伝ったことがあるが、この時も「日本人をジャッジするな」と日本語講師は外国人に再三再四言い聞かせていた。筆者はその後、結婚してフランスで生活を始めたが、パリの外国人がフランス語を学ぶアソシエーションでも、“Il ne faut pas juger les autres.(他人を判断するな)”と言われた。

どうやら様々な国籍の人が集まる場では、「他人をジャッジしない」は全員が平和に交流するためになくてはならない絶対的なルールのようである。

しかし、なかにはこう注意されているにも関わらず、異文化を自分の物差しで判断してしまう人も少なからずいた。例えば、外国人留学生のなかには「日本人は不誠実だ」と判断し、付き合うのをやめてしまう人が毎年一定数いる。

外国人から見た日本人は、「凄いね!」と褒めるばかりで、なかなか本音が見えにくい。「今度遊びに行こうよ」と言うくせに、実際に誘ってみたら断られる。自分の話を興味深そうに聞いてくれるくせに、それについてどう思うかと聞いてみると、当たり障りのない発言ばかりで何を考えているのかわからない。「本当に最初から自分の話を聞いていたのか」と疑いたくなる。「外人!かっこいい!」と近寄ってくるにも関わらず、彼らの飲み会には誘われない。外人は、日本人の友達の輪にはなかなか入れない。

こんな理由から、「日本人はいい顔するくせに、腹で何を考えているかわからない人間だ」とジャッジする外国人がいる。日本人は不誠実で、言っていることと思っていることは違うと思い込み、決めつけ、判断する。

しかし、対する日本人からすると、「あなたと仲良くなりたいですよ」という好意を、「凄いね!」という褒め言葉で伝えているにすぎない。「今度遊びに行こうよ」と言うのも、「あなたと遊びに行きたいと思っていますよ」という意思表示をしているだけなのかもしれない。外国人の話を心の底から面白いと思って聞いているが、反対に自分の意見を聞かれるのは苦手で、うまく答えられないだけなのかもしれない。友達の輪に入れないのも、メンバーに初対面の人がいるから気を遣って誘わないのかもしれない。

日本人とは仲良くなれないという外国人は、ストレートに表現しない日本文化や性格を全て無視し、欧米の物差しで日本人をジャッジしてしまっている。日本人の気持ちや欧米とは違う文化の一面を理解しようともせず、自分の感情を優先し、「相手がおかしい」と決めつける。残念ながら、こういう外国人は少なくない。

しかし、日本在住外国人はこんなジャッジメンタルな人ばかりではない。こういう場面でも日本人をジャッジせず、「なぜこのような行動をとるのか?」と理解しようとする人もいる。日本人が褒めるなら、自分も褒め返すといった具合に、日本人の行動を真似てみる。自分の意見を言うばかりでなく、相手の言わんとすることをそれとなく聞く方法を探り、察しようと努力する。こんな外国人もいるのは事実だ。

そして、そういう外国人留学生は滞在期間が終わる1年後には、決まってたくさんの日本人の友達ができ、クラブ活動や年中イベントを満喫し、帰国後も日本人との交流が続いていく。なかには、日本での就職先を見つけるという、大きなチャンスを掴む人もいるほどだ。


だから、日本に来て早々に「日本人は不誠実だ」と判断する外国人を見るたびに、筆者は「もったいないなぁ」と思う。自分の物差しで日本人を判断せず、理解しようと努めれば掴めたチャンスをみすみす逃し、逃したことにも気がつかずに偉そうにしている外国人を見ると、あまりに滑稽で哀れに思う。

あぁ、かわいそうに…。せっかく日本に来ているのに、「本当の意味の旅」をできないないんて…。

フランスに来る日本人もそうだ。客やその日の気分によって態度を変え、露骨に嫌な顔をするフランス人に対し、「フランス人は幼稚だ」、「フランス人は差別的だ」と決めつけ、なぜそうなのかを理解しようとしない人がいる。好奇心をもって理解しようと努めれば、それまでの自分にはなかった新しい価値観や考え方を学べるのに、ジャッジした時点で思考を停止し、フランスの文化やフランス人の人生観を知ろうとしない。自分の中の狭い価値観を絶対視し、その狭い世界にだけ通用する物差しを持ち出して、異文化をはかろうとする。

こういう日本人もかわいそうで、気の毒だ。わざわざ海外まで行っているのに、精神的に日本から出られておらず、自分がどんなチャンスを逃しているのかにも気がついていない。

だから、自分の物差しで他人を判断してはいけないのだ。国際交流の場で、ジャッジするなと言われるのは、多国籍文化の人間関係を円滑にするためだけでなく、やってくるかもしれないチャンスをみすみす逃して損しないためにも必要な心得なのだ。

とはいえ、「自分の物差しで判断しない」は、言うは易く行うは難しである。実際は誰もが大なり小なり、自分の物差しで他人を判断している。意識的にも無意識的にも自分のなかの常識からモラルを判断し、危険を察知したり、争いを回避している。自分の物差しで判断するとは、言い換えれば、自分の身を守るために必要な術だともいえる。

しかし、それでもやはり、「自分の物差しが絶対ではない」ことを理解しておくことが重要である。自分の物差しがいつも正しいわけではない。世界にはいろんな物差しがあって、自分とは違う物差しがたくさん存在するが、それでいいのだ。自分の物差しを疑わず、「私は正しい」と突き進む人は自分と同じ価値観をもったコミュニティーのなかでしか生きられない。世界のどんな場所に行っても、自分という殻にがんじがらめになっているのだ。

「私は正しい」という信仰は、人生のチャンスを逃すどころか、あなたの自由を少しずつ奪っていく。

正しいのは自分で、違う考えの他人は間違っている。自分とは違う、間違った考えを許してはいけない。

この思想が、世界の紛争や争いの根源にあるのではないか。
「私は正しい」という宗教は、あなたと、世界を少しずつダメにしていく。

だから、「私は、他人を自分の物差しでジャッジしない人でありたい」をモットーにしよう。

そんなあなたの心がけが、ひょっとしたら世界を変えるかもしれない。

 

Juger ce qu’on ne comprend pas, ignorance de soi-même, telle est la plaie du temps.
-Henri-Frédéric Amiel ; Journal intime, le 3 juillet 1848-

理解できないものをジャッジし、自分自身を無視する。これこそが時間の傷である。
-アンリ・フレフドリック・アミエル-


2 コメント

  1. これわかる気がします。
    日本人にも多いですよね。
    海外に住んだことはないのですが、語学はよく勉強していて、英語以外だとフランス語と中国語はそこそこできます。急に理解できるようになる瞬間があって、それはその国の人の思考を理解することだと思います。そうすることで、なぜこのような言語の順になるのか、なぜこういう発言が出るのか理解できる気がするのです。

    フランス語講座で、フランスの幼稚園児が劇を見てぎゃーぎゃー好き勝手に騒いでる回があり、それが普通だと説明されてました。自分の考えを発言することが大事だと。フランス人は各自が自分の意見をはっきり持っており、社会もそれをよしとする。そう理解した自分には、シャルリ事件はシャルリが気の毒でしかなかったのですが、日本ではマスコミ含めフランス人の人種差別とシャルリを批判していて大変驚きました。それは君らの勝手な価値観だろうと。

    また、中国人は過去の歴史から、日本人とは異なり政府を信用しない伝統がある人たちです。だから、中国政府が日本たたきをしていても冷めた目で見てる人が大勢いて、都市部では日本人が思っているよりちゃんとしている人が多い印象がネットを見ていてもあります。でも、それを言うと大批判されます。こちらはネットで彼らの発言を見ている、といっても中国語を読めない人たちがものすごい勢いで文句を言ってくるのです。

    まあこの手の人たちは、指摘しても、海外を褒めるのか!日本が一番だ!とわめいてくるので話にならないのですが、せっかくいろんな国がいるのにいろんな考え方を学ばないで思い込みで世界を狭くするのは、本当にもったいないことです。

  2. これは宗教がなくなって万人が悟らない限り最終的解決は不可能だと思います。それよりも当面はお互いが傷つかない距離を取って上手く付き合う方が現実策として有効だと思うのですが、それさえも差別と言われる世の中です。

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