言葉が全くわからない状態で海外生活をすると、聴覚障がい者になる。
写真:Flicker - vic xia

有川 浩著の『レインツリーの国』という本を読んだ。自分が好きな小説の感想を書いたブログを見つけ、そのサイトの管理人であり聴覚障害者であるひとみと交流を重ねていく…というラブストーリーだ。

この本を読んで、言葉が全く分からないで生活している海外在住者と、聴覚障がい者には似ているところがあるなぁと思った。聴力を完全に失っている聾者ではなく、聴力が弱い難聴者の感覚や疎外感は何となく理解できる。こんなことを言うと、実際に障害をもって生活している方に、「健聴者のあなたに何がわかるの?」、「わかったつもりにならないで!」と怒られてしまうかもしれない。

しかし、”ボンジュール”と”メルシー”しかわからずにフランス生活を始めた筆者は、フランスに来たばかりの頃、自分が聴覚障がい者になったような気がしていた。

あぁ、きっと耳が聞こえづらいってこういう感覚なんだ…と思ったのを、今でも昨日のことのように覚えている。

具体的に、海外在住者と聴覚障がい者はどんなところが似ているのか。『レインツリーの国』に登場するひとみの言葉で抜き出してみる。

❝だって伸さん、「聞く」と「聴く」の違いってわからないでしょう?

「聞く」っていうのは、耳から入ってきた音や言葉を漫然と聞いている状態で、健聴者はみんなこれができるんです。意識しないでも何となく会話ができるんです。

「聴く」っていうのは、全身全霊傾けて、補聴器の力を借りてわずかな残存聴力を総動員して、相手の口の形もジッと観察して、表情や仕草や気配にも気を配ります。これが私にとっての「聴く」ということです。そこまで五感を駆使して注意を払って、やっと私は伸さんと「会話ができる」んです。それも100%分かるわけじゃなくて、先読みとか推測も駆使して「たぶんこう言っているんだろうな」っていうのが限界なんです。

伸さんは何の気なしに「聞いて」何の気なしに「会話」できますよね。私は違うんです。❞

海外で周りの人が話す言語がわからなければ、それはもう単なる「雑音」でしかない。電車の中で自分の後ろに座った人が自分の悪口をこれみよがしに言ったとしても、理解できないから聞こえないのと同じことだ。

外国語を勉強して、何とか相手の言っていることを理解しようとするが、これは本当にとても神経を使う。

人が多くてざわついた場所では雑音が入って聞き取りができないし、相手の口の動きをじっと見つめて何を言っているのか予測するという会話の仕方は、難聴者と同じであるように思う。アメリカ映画をフランス語に吹き替えたものは、口の動きと発音がかみ合わないから、理解するのがとても難しいし、人と会話を会話をするときに口を隠されると理解力が8割くらい下がる。だから、電話での会話はほぼ不可能だ。

全身全霊で、相手の表情や目線、仕草から何を言ったのかを予想し、これから何を言うかを予測する。それでも100%は理解できないし、後になって「あの時はこういうことだったのか」と気づくことが多い。

言葉が全くわからない状態で海外生活をすると、聴覚障がい者になる。しかし、他人と全く会話ができないというわけではない。静かな場所でゆっくりと一対一で話せば、割と何でも理解できる。簡単な単語を使ってくれる人や、ゆっくり口調の人、はっきりと発音してくれる人との会話なら、日本人との会話と大差ないようにさえ感じる。

ただ、人数が4人以上になると会話に入れない。だから人が集まって雑談するような場では「そこにいるだけ」の人になる。誰かに集中して話を聴けばいいわけではなく、曖昧に笑っているだけしかできないのだ。

ひとみの言葉を借りると、それはこういう状況だ。

❝気心の知れた人のなかでも、雑談の時は周囲の雰囲気に合わせて曖昧に笑っているしかない。話の内容が分からなくてもいちいち周囲に訊いて話の邪魔はできないし、中途失聴者や難聴者がそんな状況で恐れるのは「今何の話をしてるか分かってる?」と訊かれることだ。(中略)

ひとみ:会社の雑談って、結構大事な情報収集の場でしょ?でも私、そこに入れないんです。雑談って、多対多のコミュニケーションだから。だから、そこで社員の冠婚葬祭の話題が出たりしても、あとで誰かが教えてくれないと分からないんです。でも、私は孤立しているからあんまり教えてくれる人がいないし、結局不義理になっちゃったり、「あの人耳悪いから」って最初から話に入れてもらえなかったり。割り切っちゃえば楽なんだろうけど、なかなか割り切れないから。❞

この孤独感、わかるなぁ…。こうやって雑談に入れずにどんどん周りから浮いていき、卑屈になって「どうせ自分の気持ちなんか誰もわかってくれない」と自分の殻にこもってく心理状態も、手に取るようにわかって胸が痛くなる。

しかし、忘れてはいけないのが、海外在住者と聴覚障がい者には決定的に違うところがあるということだ。

それは、海外在住者は自分の努力次第で、聞こえなかった言葉がだんだん聞こえるようになるという点。

言葉を勉強していくと、周りの雑音がだんだんと「意味を持つ言葉」になっていく。

曖昧に笑うだけの、つまらなくて暇で仕方なかった多対多のコミュニケーションを楽しめるようになる。

周りの人に、「あいつは言葉がわかる」ということが認知されていけば、最初から話に入れてもらえないこともなくなっていき、人間関係が広がり、世界が広がっていく。

だから今、海外生活をしていて言葉の壁に悩み、自分には一生語学の習得は無理だとあきらめそうになっている人がいたら、もう少し頑張ってみてほしい。

障がいのない、聞こえる耳を持っている、見える目がある、体が思うように動く、歩ける、走れる、声が出せる…。

これって本当に、物凄くラッキーなことだと思うから。

雑談に入れなくなって、雑談の重要さを理解できるようになるのと同じように、失ってから初めてその大切さに気付くということがある。

そして、言葉の壁に悩み、自分の殻に閉じこもっている人は、「苦労しているのは自分だけではない」と気が付くことも大切だ。『レインツリーの国』の後半では、そのことに気が付いたひとみがこのように語っている。

他人に理解できない辛さを抱えていることは健聴者も変わらないのだ。その辛さの種類がそれぞれ違うだけで。

聞こえるのだから自分たちより悩みは軽いに決まっているなんて、それこそハンデのある者の驕りでしかなかったのだ。伸のように、健常な聴覚とコミュニケーションの手段を持っていても、他人に痛みを晒そうとしないものだっているのだ。

「話せないから、自分は外国人だから、人より苦労してるなんて思うな。」

フランスに来たばかりの頃の自分に話しかけられるなら、そう言ってあげたい。

シェア


返事を書く

 

※ コメントは承認制です
コメント反映までに時間がかかることがあります。予めご了承ください。

2 コメント

  1. 言語学習あるあるですね。全部よくわかります。とはいえ、騒音にしか聞こえないレベルで現地に行った挙句に「孤独で寂しい」というのは「事前準備の怠けが原因では…」と思ってしまいますね。私はヨーロッパ言語2カ国語を理解しますが、現地での本格的使用の前に勉強していたので困る期間はかなり短かったです。つまり努力で軽減できます。

    日本人はヨーロッパ言語的な会話の内容を知らず、それ故にコミュニケーション能力が無いとみられる事が多いのですから、せめて言葉の勉強だけはして「こいつは賢いのだろうけど話言葉は下手」位と思わせないと実生活で損ばかりします。日本人の得意な文法と語彙を学習しておくだけで反応は全く違うのに勿体ないですね。

    • まぁ、確かにある程度言葉を覚えたうえで海外へ行くというのが理想ですが、実際は急に海外行きが決まって勉強する時間がないまま…という人もいますからねぇ。私がそうでした!