「英語は見た目が9割」 語学できる人が無意識のうちにやっていること

第一印象では「見た目」が重要とは、よく言ったものだ。最初の印象は、その後もなかなか変わらないことから「人は見た目が9割」なんていう言葉もあるほどである。

筆者はこの言葉を聞いたとき、「これは語学学習者にも当てはまるなぁ」と思った。世の中には、英語の知識が豊富でボキャブラリーもあるのに、外国人とスムーズに会話できない人がいる。その一方で、よくよく聞いてみると文法は間違えていたり、大して語彙力があるとは言えないような人が外国人と楽しく会話していたりする。


この違いは、「見た目」だ。語学ができる印象を相手に与え、気まずさのない安定感のある会話を外国人とするには、「見た目」がかなり重要なのである。

それを実感した出来事がある。日本で、外国人留学生たちと交流してた頃の話だ。

フランス人のマチューは、日本に留学に来た時点で日本語学習歴4年。漢字を書くのは苦手だが、文法をきちんと理解しており、語彙力も豊富だ。発音は少しフランス語なまりだが、リスニング力&スピーキング力ともに日常会話で支障はあまりない。

そんな彼と同じ大学から留学してきた中国人のルーシーは、日本語学習歴2年。さすがは中国人だけあって、漢字の読み書きは誰よりもできる。初めて見る漢字でも意味を想像できたそうだ。しかし、会話は苦手で日本人が何を言ったのかわからないこともしばしばである。発音はなまりがなく、聞いていてつっかえる感じが全くなかった。

マチューもルーシーも、日本の大学の授業ではどちらも中級クラスだった。筆者はこの二人と特に仲良くしていたので、時々日本語の宿題などを手伝ってあげたりもしたのだが、筆者の目から見ても2人の日本語レベルは甲乙つけがたいという感じだった。

しかし、実際にこの2人が日本人と会話するときは、明らかにレベルの差が出たようだった。なんと、会話の苦手なルーシーにばかりみんな話しかけるのだ。ルーシーはというと、実際に後で聞いてみると「なんて言っているのかわからなかった」ということが多かったのだが、かわいい顔と女の子らしく笑顔で「うんうん」と話を聞く仕草が手伝って、話を”理解している風”に見える。何といっても、「アジア人の見た目」で日本人に抵抗感なく、受け入れられるようだ。

対するマチューは、日本語で話しかけても英語で返されたりして、なかなか日本語で普通に会話できない。なぜ、同じレベルのはずのルーシーのほうがたくさん会話できるのか不思議で仕方ないという感じだった。

ルーシーは言う。

「たぶん、私のアジア人の見た目のおかげだと思う。日本人と会話するときと同じような感覚で、私に話しかけてきているんじゃないかな。」

これは確かにそうだ。筆者自身、マチューと話す時に比べ、ルーシーと話すときのほうが「外国人と話す」という感覚が薄くなっているのを感じた。頭では日本語ネイティブではないとわかっていても、実際にルーシーを目の前にして会話するときは彼女の日本人らしく話を聞く見た目に惑わされ、気がつけば日本人と会話しているような感覚になった。

人は見た目で判断できないとは言ったものだが、やはり視覚から入ってくる情報をあまく見ないほうがいい。実際には日本語での会話が苦手でも、日本人と同じような仕草をすることで、「日本語を理解できる人」に変身できる


とはいえ、日本人の私たちが白人や黒人の見た目になるというのは無理な話だが、それでも大丈夫。

英語圏の国は、ほとんどが移民国家。私たち日本人は「白人や黒人が日本語を話せるわけがない」という偏見が強いが、移民の多い欧米はそうではない。アメリカやイギリスで生まれ育ったアジア人もたくさんいるから、「アジア人が英語を話せるわけがない」という思い込みを持たれることは、まずないと言っていいだろう。

白人や黒人の見た目ではなくても、英語ネイティブのように会話をするというのが、何よりも大切なのだ。日本人をまねたルーシーのように、「英語を理解できる人」に変身すればいい。

自信を持って胸を張る。わからないことがあれば、質問する。意見を聞かれたら曖昧に答えるのではなく、自分の言葉できちんと説明する。ユーモアだって欠かさない。所々でジョークを言って場を和ませる。

よく考えてみると、これらは筆者が尊敬する「語学出来る人」はみんなやっていることだ。

たまに「いつもお世話になっています」って英語でなんて言うの?と聞いてくる人がいるが、こんな風に日本語の世界を英語に応用しようという発想ではダメだ。とどのつまり、「いつもお世話になっています」を英語に完全に訳すことはできないし、こんなフレーズを言い合う文化ではないからだ。

大切なのは、英語の世界の人になりきること。英語の世界の人は、どんな気持ちをどんな場面で、どんな言い回しで伝えるのか。日本語からの変換ではなく、英語の世界での常識、つまりは文化を学ぶということが、外国人とのスムーズな会話ができるか否かに直接関係してくる。

とはいえ、、見た目だけを「できる風」にすれば全て解決するのかと言えば、そうではない。たくさん話しかけるわりには全然英語を理解していない人もいるし、そんな人との会話で「なんだ、全然わかってないじゃん」と後で思い知らされることもある。

このいい例がインド人。『真面目すぎる日本人はインド人のおっさんを見習うべきだ!』という記事にも書いたが、インド人は英語がわからなくてもとにかく話し続ける。英語のミスなんて細かいことは気にしない。自分の言ったことが相手に理解されなくても、決してひるまない。理解されなかったら、少し残念そうな顔はするが、すぐに話題を変えて他のことを話し出す。とっても自分よがりな会話をする人たちだ。

しかしこれが、聞いていて嫌な感じはしない。つたない英語でも、自分に一生懸命話しかけてきてくれるのが逆に嬉しかったりする。変にプライドが高い付き合いづらい人という印象がなく、ミスコミュニケーションすらも面白く感じる。

だから、実際には語学出来ない人でも、“できる風”にどんどん話しかけていって失うものはない。間違えたって、失敗したって、失うものは何一つない。むしろ、得るものばかりだ。

英会話ができるようになりたい人は、今日から英語ができる人ということにしろ。そういう設定にするのだ。

日本語で生きる自分のほかに、英語の世界の自分をつくってあげる

これが、語学できる人が無意識のうちにやっていることだ。

 


2 コメント

  1. 確かに、知恵袋やgooを見ていると「お疲れさま」って英語でどう言いますか?みたいな質問をよく見かけます。日本にしかない概念を別の言語で表現するのは大変です。こういうことやってるからいつまでも外国語が上達しないんだなと思います。ただ、白人や黒人が日本語を話せるわけがないなんて私は一度も思ったことはありませんよ。むしろ文字も文化も遠いのによく短期間ですらすらと話せるようになるなぁと感心することの方が多いですよ。

  2. 最初は英語が話せるって、なんだかカッコいいみたいな憧れから始める人が多いと思う。
    自分も産まれて初めてカナダで二ヶ月という短い期間でヨーロッパ人と仲良くなれて、マクドナルドとかで普通に混じって英語で喋っていました。 

    でも外国人と交流する中で、見た目も違う連中と話に夢中になれる喜びが英語で話せることの大切さに変わりました。 そのうちの一人とはもう長いことお互いに連絡を取り合っています。 その相手はフランス語のネイティブなので、英語ではなくフランス語で主にメールをやり取りする仲です。

    この話のテーマである「見た目」でいくと、自分はどうなのかな? どっから見てもバリバリ日本人だろうと観られると思いますね(笑) 多分最初は、外国人から見て「この人は話せないだろう」と思われてますよ。 でも話していると「あれ?この人大丈夫なの」みたいな安心感が相手に生まれてくるみたいです。

    自分の経験からいくと「英語でコミュニケーションを取りたい」というマインドセットが、見た目よりも大切なのかな?と思いました。

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