障がい者を地域で受け入れるってかなり難しい…と思った話
写真:Flicker - Alessandro Baffa

相模原市の知的障害者施設で起きた殺傷事件から2か月がたった。これを受けて今月21日、全国の知的障害者およそ1000人が参加し、犠牲者を追悼する集会が開かれた。

参加者には、「障害者である前に一人の人間だ」、「地域社会での自立生活を営む選択肢を確保すべき」といった声が上がった。ニュースでこれだけを聞くと、筆者も「全くその通りだ!」と納得していたのだが、聞いただけで納得することと、自分が実際に経験してみるのでは、全く違う現実が見えてくるということが実感した出来事が最近あった。

それは、筆者の住んでいる地域が主催する、外国人のためのフランス語教室での話だ。

筆者が数年前からこのフランス語教室に通うことにしたのは、フランス語のレベルを上げることが、自分の生活の快適さに直接関係すると考えたからだ。週に2時間程度のレッスンだし、先生も語学の専門家ではなく、定年を迎えた地域のボランティアだが、それでも年配のフランス人から学べる事は非常に多く、何よりいろんな国の外国人と一緒にフランス語を学べることが楽しい。

みんな自分と同じようにフランス生活につまづいたり、フランス人の言動に戸惑ったりしているんだと知って、レッスンに通うたびに「私もみんなに負けないように頑張ろう」と勇気をもらえる。

だから筆者は、このフランス語教室を毎週熱心に通い、授業中もできるだけたくさん発言して、最大限に活用している。自己判断だが、「やる気のある日本人」として、先生にも周りの外国人にも認識されていたように思う。

ところが、そこに先週、知的障がい者のモロッコ人女性が入ってきた。

学ぶ気満々で教室に入った筆者は、正直驚いた。筆者はこれまで、あまり知的障がい者と話をしたことがなく、自分の周りに障がいを抱えている人もいない。なので、彼女に会って数秒は彼女が知的障がい者だということに気が付かなかった。

周りの外国人と、「元気にしてた?」「バカンスはどこに行ったの?」なんて雑談をしている時に、急にそのモロッコ人女性が大声をあげる。

あー、わたし、バロセロナ知ってるー!!!

どうやら私たちが「バカンスでバロセロナに行った」という話を聞いて、こう発言したらしい。急に大声を上げられたことと、急に会話に入ってこられたことに、心底びっくりした。

すると先生が彼女について説明し始めた。

「彼女は未熟児で生まれて、いろんな機能が発達していない状態で生まれたから発音や思考が遅れたり、耳が聞こえなかったりします。彼女の両親と僕が友達で、両親の仕事の都合でフランスに来ることになり、彼女はフランス語を学ぶ必要がでてきたので、今日はここに呼びました。」

その後、授業を開始するのだが、やはりいちいち彼女の発言で流れが止まってしまう。この様子を船に例えると、授業参加者全員で船をある方向へ漕いでいるのに、彼女の存在という大きな波のせいで方向を見失うような感じだ。とにかく、みんなが話している最中に大きな声で「あぁー!」と叫びだしたり、流れを全く無視して「私辞書で調べるわー♪」と言ったりして、周りの人をイラつかせているように感じた。

正直、筆者も心の中で相当イラついた。頭の中では、「これは本人が悪いのではなくて、脳に障害があるのだからしょうがないんだ」と理解はしているのだが、彼女が発言する度に反射神経のように、イラッとする。

先週までは、こんなに流れをつっかえさせるような存在がいなくて、みんなで楽しく学べたのに…。なんで、この人が入ってくるの?ここは障がい者のためのクラスじゃないでしょう?あなたのせいで、私たちの学ぶ速度が遅くなるのよ?あなたは障がい者クラスで学べばいいんじゃない?本当、障がい者なんていなければいいのに…。

…と、憎悪が胸の中いっぱいに広がった。

すると今度、筆者を襲ってきた感情は、自己嫌悪だった。

ひょっとしたら、自分が生む子どもが未熟児で、彼女のように脳に障害があって生まれてくるかもしれないし、自分だって、障害者になっていた可能性だってあった。彼女の親だって、きっと「娘に地域の普通の外国人と触れ合ってほしい」、「周りと同じように社会の人とふれあってほしい」という切なる願いがあって、フランス語教室に行かせたのだろう。そんな彼女の家族の気持ちを考えると、自分の感じたことがとても汚くて、いやらしくて、自分で自分が本当に嫌になった。

筆者のような考え方をする人間がいるから、障がい者に対する偏見や差別がなくならないのだと思う。

相模原市の犠牲者を追悼する集会で、ある参加者はこう言っていた。

「障害者はみんなうまく言葉にできなくても心や頭の中ではちゃんと考えています。このことを社会の人たちにわかってほしいです」

全く、その通りだ。フランス語教室に来たモロッコ人女性も、きちんと頭で考えていた。フランス語の知識では、私が知らなかったことを知っていたりして驚かされたし、フランス語を学びたいと思っている気持ちはみんな一緒だ。良い時間を過ごしたいという気持ちだって共通している。

しかし、現実問題、健常者側が障がい者の持っている世界や思考回路を理解するには相当の時間がかかるし、彼女が授業の流れを止めてしまうのも事実だ。

そして筆者も、つっかえつっかえペースの遅い授業に週に2時間費やすことができるほど、時間に余裕のある生活をしていない。それなら他の授業に行って、同じ時間でより多くのことを学べびたいし、他に時間を有効活用したいと思う。健常者は他に選択肢があるから、「他」を選ぶ。

だから、障がい者を地域で受け入れるのは難しいのだと思う。

結局のところ、健常者も仕事や日々のしなくてはいけないことに追われていて、障がい者と交流するような時間的、精神的余裕がない。自分の欲求と、障がい者の欲求が拮抗したときに、自分の欲求が最大限に満たされる方の選択をする人がほとんどなのではないか。

障がい者を本気で地域に受け入れるというのは、健常者側に(例えば定年を迎えた人のように)心と時間の余裕がないとできないし、「100%障がい者のために動こう」という心構えがないとできないのではないかと思う。

「障がい者が地域社会での自立生活を営む選択肢を確保すべき」

それは、本当にその通りだと思う。しかし、現実問題としては、かなり難しい。ニュースを見聞きして、頭の中で考えることと、実際に自分が経験してみて感じることは全く違うこともあるんだなと、モロッコ人女性に会ってみて思った。

「障がい者はいらない」…そんな気持ちがあなたに全くないと本当に言えますか?

障がい者を地域で受け入れるためには、何が必要だと思いますか。コメント欄で教えてください。

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30 コメント

  1. 初めまして、こうやってコメントさせて頂くのは初めてですがいつもフランスからの文章を尊敬と共に拝見しています。
    この度あなたのエッセイを読んで感じた事を書かせて頂きます。
    まず、私には自閉症と知的障害を伴った息子が居て、日々彼の療育と、そして多くの知的障害を持った子供たちと触れ合っています。子供の障害が判明するまでは私も全く障がい児という存在に多くの関心を持っていませんでした。(今のあなたと同じ様に他人事でした)そして今その事によって自分の夢や将来に否応なく制限が掛かっています。その上で敢えて言わせていただきます。
    「たった一人の障害者に会っただけで、何かわかったつもりになってんじゃねーぞ!」
    障害者だって100人いれば百通りの個性があります。
    空気を読めずに奇声を発してしまう障害者も居れば空気を読みすぎて何も喋れなくなる障害者もいます。部屋をゴミ屋敷の様に散らかして片付けられない人、逆にチリ一つ自分のテリトリーに異物が有るのが許せない人、もちろんその中間にいる人、つまりたとえ知的障害を持っていても健常な人と同じ様に「個性」があるんです。
    あなたはたった一人の障害者にイライラしてしまっただけで、「障害者とは健常者をイライラさせてしまう存在だ」と思ってしまった。しかしそれはたった一人のフランス人にムカついたから全てのフランス人はムカつく存在だと思う事と何も変わりがありません。つまり無知からくる差別そのものです。
    障害者に対する理解というのはそんなにハードルの高い物ではないです。健常者と一緒です。「一生懸命 相手の話を聞く」それだけです。しかし自分の日常にいないと途端に異質に感じる、だから出来るだけ複数の障害者の方と触れ合ってみてください。そうすると「気の合う人」「波長の合う人」がでてきます。そして、おそらく今イライラしてしまうモロッコ人女性に対しても特別な「心の余裕」が必要なくなっている事に気ずくと思います。
    いつもとても興味深い文章を書く方が今回に限って非常に愚かな内容でしたのでおもわずコメントしました。失礼します。

    • コメントありがとうございます。私のなかでは一人の障がい者に出会ったことで、全て同じだと決めつけたつもりはなかったのですが、そのようにとられるような書き方で申し訳ございません。
      確かに、「いろんな個性のある障がい者がいる」という観点が抜けている文章でしたね。不快にさせてしまったのならすみませんでした。
      しかし、個性も含めて障がい者一人一人がもつ世界を他人が理解するには時間がかかる、というのがこの記事で最も言いたかったことです。
      そして、その個性や世界観を理解するまでの時間やエネルギーを与えるほどの余裕がある人が少ないのでは?それならどうすればいいだろう?という問題提起がしたかったわけです。
      >おそらく今イライラしてしまうモロッコ人女性に対しても特別な「心の余裕」が必要なくなっている事に気ずく
      とありますが、本当にそうなんですかねぇ…。中山さんのおっしゃるように、私は障がい者に関しては全くの無知です。なので、わかりません。
      現実問題として、障がい者と健常者が完全に混じり合う場というのはあまりなく、私のようにこれまで一度も障がい者と話したことがないという人も多いと思うんです。
      そういう人でも、「そんなにハードルの高い物ではない」と感じるには、やはり接する時間を増やすことが大切なのでしょうか。
      >障害者に対する理解というのはそんなにハードルの高い物ではない
      これは具体的にはどういうことですか?どういう気持ちで接すればいいのでしょうか。
      また、社会全体が障がい者を受け入れ、隔たりのない社会へ向かっていくには、中山さんはどうすればいいと思いますか。
      質問ばかりで恐縮ですが、お考えをお聞かせいただけると、光栄です。

      • それともう一つ知りたいのは、障がい者本人や、その家族はどんな社会になるといいと思っているのですか。どんな風に接してほしいですか?例えば、下でコメントされている店員Aさんのご意見にある、
        >不便と不快感を感じられても「障害者だから」ですまされ苦情も言えない(言うと差別だとされる)のは受け入れるとは言えないと思います。
        という部分についてはどうお考えですか。またみんとさんの言う
        >「可能な方法で可能な時に支援する」人が増えればいい
        というご意見についてはどう感じますか?

    • みんな中山さんのように障碍者に対して経験豊かではないですから、中山さんのような理解の境地に至れないのは、当然なのではないのでしょうか。
      非常に愚かといきなり弾劾する貴方の態度の方が愚かに見えてしまいます。障碍者に対する理解を促したいのであれば、もう少し言葉を選ぶべきではないでしょうか。障碍者を理解しているから、支援しているからといって上から目線で発言される方がいるのが残念です。無知からくる差別というのであれば、理解を優しく促すべきでは。知らないということだけで避難するのは残念な態度ですね。
      彼女は少なくとも表明しにくい自分の気持ちを吐露し、世の中がより良くなるための建設的な議論しようとしているのだから。受け入れる心の余裕を貴方から先に持たないと、誰も貴方と障碍者を受け入れなくなりますよ。

  2. 周囲の「捉えかた、気持ちの持ち方」によって異なるかも。

    典型的な「アスペルガー症候群」と言われる症状ですね。こういう人は、情緒が極めて野生的で反射的だ。人によって程度の差はあるものの、少なからず性格的に「空気を読めない」という人はいる。(特に日本社会はおそらく世界一空気を読めない人、言葉で伝えないとわからない人には生きづらい社会だと思う。)そして、性格の問題なのか、病気なのかを区別するのも難しい。
    健常者の中で、こういうアスペルガーな人達を迷惑だと思っていらづく人もいれば、「面白い人」とか「ユニークな人」と捉える人もいる。
    そこは社会がどれだけぎすぎすしていないか、ゆったりしているかにもかかっているが、精神的に余裕がある成熟した社会になればなるほど、彼らは認められていくのではないかと思う。
    本当に教育や仕事の足をひっぱるようだったら、そういう人達のための施設があるわけだし、彼らの別の才能を行かせる学校に行かせるのも一案。
    アメリカの場合は、軽度のアスペルガー傾向を持つ人を「gifted」ととらえて、「天から与えられた別の才能」(特にアスペルガーには天才的な才能を持つ人が多い傾向にあるらしい)を見つけてあげようとする団体があるが、フランスの場合はどうでしょうか?

    • フランスでは「gifted」という話は聞いたことがありません。私が知らないだけかもしれませんが。
      確かに、同じアスペルガー症候群の人でも、相手によって捉え方は全然違うでしょうね。私の場合は、やる気満々で意気込んでいったフランス語教室で出会ったので、このような反応になってしまいましたが、時の場所、状況によっては全然違ったように感じていたかもしれません。勝手ですが…。

  3. 通常の人間関係だとお互いに歩み寄る事が出来るますし、互いに歩み寄れない相手とは関わらなければいい話なのですが、健常者が障がい者に歩み寄りを求めることは無理なので、イライラしてしまうのは仕方の無い事だと思います。
    私にはADHDの知人が居ましたが、こちらが非常に余裕が無い人生で一番辛い時期に、状況を説明したにもかかわらず、通常通りの寛大な対応を求められた上に、止めて欲しいとお願いした事もADHDが故にコントロール出来ず、当たり散らされた結果、私の限界を超えた為に私の怒りは爆破してしまい、今はその知人とは連絡をとっていません。あのまま知人の相手を続け我慢していたら、私が精神的に病んでしまっただろうと感じていますし、そのくらい酷い状態でした。
    もちろん障がい者の人権も尊重されるべきだと思いますし、弱者に優しい社会が理想だと思いますが、障がいがゆえにとはいえ、人としての常識が通じなく、相手からの歩み寄りを必要としている時にそれらを得られ無いと感じた場合、その場を離れることは一つも悪い事では無いと思います。
    もちろん障がい者などの弱者を故意に虐めるなどの行為はダメですが、障がい者達にイライラしてはいけないのでは無く、イライラ感じる時には関わらないようにするのが互いにとっていいと思います。
    「可能な方法で可能な時に支援する」人が増えればいいのではないでしょうか?

  4. みなさん、様々な角度からのご意見をありがとうございます。こういう色んな立場からの話が聞きたかったので、とてもうれしいです!

  5. 飲食店で仕事しています。
    見てわかりやすい身体障害の方はまだ歓迎できますが、話の通じない、見てわからない障害者は本当に困ります。
    酔っ払いや客は神様だ俺が偉いと喚く客なら警察を呼んでもいいのですが、突然叫んだり奇行に走るタイプは他のお客様に迷惑になる上にこちらも「悪質な客」として扱えません。「近くの客が意味のわからない叫びをあげたりして気味が悪かった」「何をするのかと気になってゆっくりできず不快だった」と来店アンケートに書かれても何もできません。
    子供も急に叫んだり動いたりしますが、体が小さいしこちらも気にします。ですが大人にされると危険です。
    たとえば車椅子の方がグラスを割られてもまず謝罪してくれますからこちらも大丈夫ですと笑顔で返せますが、本人がぼうっとしたままで片付けようとしたら突然動かれて本人や店員が怪我を……なんてされると付き添いの人に謝罪されても笑えません。
    言い方は悪いですが、目を離さず見張っていてもらわないと、こちらに余裕がない場合悪感情ばかりが生まれると思います。
    難しいのはわかっていますが、まず健常者と同じ事ができず常識が通じない以上、受け入れる準備のないところでは付き添いの人にいてほしいです。 一人の「お客様」のために他の大多数のお客様にしわ寄せが行き、不便と不快感を感じられても「障害者だから」ですまされ苦情も言えない(言うと差別だとされる)のは受け入れるとは言えないと思います。

  6. このような難しい問題に正直に自分の気持ちを書かれたリリーさんにまずは敬意を表します。

    一方で、中山さんの「障害者だって100人いれば百通りの個性があります。」というのもまさにその通りだと思います。

    今回のリリーさんの経験は、ある特定の、リリーさんにとって嫌な性質を持った人との関わりについてのことだったかと思います。それが「障碍のせい」なのか、「障碍とは特に関係なく、たまたまその人が持っていた性格のせい」なのかはわかりません。私は大学の教員なんですが、あるとき4人の同僚と話していて、子供の頃学校でどうだったかという話になり、「溶け込めなくて孤立していた」っていう人が1人、「嫌な子供だった」っていう人が1人、「騒がしくていつも注意を受けていた」という人が2人(私を含めると3人)でした。私たちは一応障碍者ではないと見なされているのですが(そんなんだから大学の教員なんかをやってるのだという意見はあるかと思いますが)、それでもこんな感じです。5人中4人(私を含む)はおそらくはそれなりに周りに迷惑をかけていた。何がいいたいかというと、障碍者であれ健常者であれ、世間に迷惑をかけるということはあり得る、という事です。逆に、障碍者であれ、健常者であれ、世間に貢献することもある。

    というと、それはきれい事だ、障碍者のほうが迷惑をかける事が多いじゃないか、っていう話になるかもしれません。一方で、「人権」は障碍者であれ健常者であれ等しく持っていることになっているので、障碍者に対して配慮しないといけない事が増えて大変だっていう意見もあるでしょう。その配慮に対して嫌悪感を持つ人もいるでしょう。

    でも、考えて見て下さい。「嫌な人」「迷惑をかける人」はどこにでもいる。歳をとってぼければ、誰だってそうなりうるわけです。私は、いわゆる「新自由主義」の「市場に任せる」という考え方が好きになれないのですが、それは、それぞれの人が「自分の」権利を主張し、他者のそれを受け入れなければ、社会がどんどんギスギスしたものになっていくことを恐れるからです。「迷惑をかける障碍者」は「社会にとって有害」だから排除しよう、という考え方を敷衍すれば、「迷惑な老人は」「迷惑な能力の低い人は」「迷惑な見た目の良くない人は」「迷惑な性格の悪い人は」、「社会にとって有害」だから排除しようということになりかねません。結局の所、「人の間に線を引く」ことは非常に難しいし、だから、逆に我々は、障碍者であれ健常者であれ等しく人権を持っている事を受け入れているのだと思います。

    • うーん、本当におっしゃる通りだと思います。人間誰もが、明日障がい者になる可能があるし、自分にも起きうることだという意識が必要ですね。社会に迷惑をかける人を排除しようという発想は、社会がどんどんギスギスしたものになっていく原因だと私も思います。
      >結局の所、「人の間に線を引く」ことは非常に難しいし、だから、逆に我々は、障碍者であれ健常者であれ等しく人権を持っている事を受け入れているのだと思います。
      私の中で、この人は障がい者!というように、障がい者の枠組みに入れてしまった、カテゴライズしてしまったというのもあると思います。その理由は、「慣れていないから」。
      やはり、障がい者に限らずいろんな人に出会って、話してみるという経験が必要ですね。それを改めて思い知らされた体験でした。

  7. もう一点書き忘れました。

    「障がい者はいらない」…そんな気持ちがあなたに全くないと本当に言えますか?

    これについて。

    その気分が全くないとは言えません。私は聖人君子ではありませんのでね。ただ、それについてリリーさんが持たれたような自己嫌悪の気分もあります。

    実際の所、障碍者がどの程度社会に取って重荷になっているのかによって、どのような施策が採られるかが変わるんじゃないかと思います。例えば、出生前診断によって判定できる障碍っていうのがあります。それは確実に判定できるのではないんだけど、まあそれなりの確率で判定できる。日本では出生前診断は違法ではないけど、積極的に推進もされてない。私の理解では(間違ってたら訂正して下さい)イギリスでは出生前診断はかなり行われてて、(それだけが要因とは言えないかも知れないけど–葉酸の摂取推進もある)二分脊椎症が激減しました。日本ではこのあたりの議論がされてないですね。

    更に、少なくとも現状では出生前診断をすり抜ける先天障碍もあるんで、やるべきかどうかだけでなく、それをどうするのかっていう問題もある。少なくとも、現実にいる障碍者に対しては、「排除する」という方針は普通の国では(日本も含めて)採ってないし、それは私も正しいと思います。

  8. はじめまして
    障害者云々の前に、あなたは自分勝手です
    「フランス語を学ぶ気満々」なのはあなたの都合であり、それまでの教室の雰囲気はたまたまあなたが好む様子だっただけです
    モロッコ人女性も彼女なりにフランス語を学ぶ気も理由もなくあるから教室に通っているし、教室側も受け入れている
    あなたはあなたの思い通りにならなくなったことにイラついているだけ、ワガママなだけです
    本来イラつく相手は、モロッコ人相手ではなく教室運営に対してでしょう
    そこでモロッコ人女性に直接嫌悪するのは、あなたの差別心に他ならないし、「慣れてないから」というのなら、それは人種差別と何ら変わりません

    社会がどうなれば、というのは、あなたのような考えの人が謙虚になることが第一歩です
    勘違いしている人が自分を振り返ることですね
    障害者差別をなくそうと尽力している人達は、きれいごとでやってるわけでも、はたまた他人事で実情を知らないわけでもないのです
    あなたは今回の教室の件で障害者の方と出会い、障害者を差別していますが、他のマイノリティに出会っても見下して差別するでしょう

    ご自身の問題ですよ
    社会に問題定義するような段階に、あなた自身が至っていません

    ちなみにわたしも2005年までニースに住んでいました
    もし当時、あなたのような勘違いした同胞に出会ったら、わたしはあなたを大嫌いになり、また同じ日本人として恥ずかしく思ったでしょうね

      • 「障がい者はいらない?」について。リリーさんは、相模原の加害者の言葉をわざと用いたのだと思っていましたが、違うのでしょうか。
        「人間は、全て同じじゃない。」ですから、すべての人の人権というか命としての尊厳を認める、の一言に尽きると思います。前出の大学の先生のおっしゃる通りだと思いますよ、ここのコメントを見ても。
        障がい者の親御さんでも、いろいろであり健常者でもいろいろです。一人の場合でも、余裕があるかないかで、あるいは時間があるかないかだけでも対処の仕方や心の状態は変化しますよね。
        相模原の場合は、私は許されることではないと思いますが、リリーさんがその時そう感じたことを否定する必要はないと思います、私自身がそう感じるかどうかは別にして。実際経験したのですが、障がい者同士でも問題が起きますし、健常者がしたことに対する考え方が違います。
        でも、確かにここまでおっしゃられると傷つくと思います、同情します。(^_^)

    • 〉〉本来イラつく相手は、モロッコ人相手ではなく教室運営に対してでしょう
      確信をついている気がします。
      でも、後半の
      〉〉社会に問題定義するような段階に、あなた自身が至っていません
      と断言してしまうのは違うと思います。
      「若い」や「経験が浅い」ことは、それなりに経験を積んだ人から見れば愚かかもしれませんが、問題提起しながら学ぶ姿勢を否定するならば、人は新しいことをどうやって学んでいけばいいのですか?popopさんは何一つ間違える事なく正しい答えを身につけられたのでしょうか?
      筆者の文章がストレートで、日本語で書いてありながら日本人には合わないキツイ表現があるなぁと感じます。「障がい者はいらない」と言う表現は正直ちょっと酷いなと思いますが、筆者はそんな感情を持ってしまった自分をきちんと振り返りながらも「どうしたらいい?」と考えていると書いてあります。
      筆者に怒りを感じている方は、内容よりも書き方に憤りを感じているのではないでしょうか?

  9. コメントを読みましたが、正直申しまして、今回の記事はわたしも不快に感じました。
    これまでの記事もいくつか読んでいますが、マダムリリー様には少し偏見があるのではないかと思っていました。

    なんだか、面白く書こうとするあまり、おちょくっているように感じます。
    そもそも、そのモロッコ人の障害者の方が、授業を妨害(?)したくだりは、そんなに長く切々と語らなくても良かったのではないでしょうか?モロッコ人って表記、いるんですか?なぜ国名が重要なんでしょうか?

    ただ、この問題は深く考えれば考えるほど、一般的な回答はなく、批判を浴びやすいものだと思います。
    障害者の両親は、おしなべて感情的になりやすく、それはそれで当たり前のことだからです。
    本人は弁護できませんから、親が変わって守ろうとするためだと思います。

    私には小学校の時、障害者の子供がいました。
    (日本人の女の子です。この情報もいるかもしれませんね)
    その子は、知的障害があったので、普通の子供より「常識」を理解することができませんでした。
    いきなり泣いたり、いきなり怒ったり、いつも叫んでいました。
    田舎で育ったので、特別学級などはなかったですから。
    でも、すごいなこの子とは思っても、いなきゃいいのに、なんて恐ろしい考えをしたことがありません。

    だから、マダムリリーさんの表現の「いらない」という言葉に驚きました。
    我が子のことなら、百歩譲ってまだしも、他人の、しかも全てをひっくるめて、障害者なんていらないという言葉はいささか強すぎるのではないでしょうか?
    腕を失くした方、足が動かない方も障害者ですよ。
    知的障害者はいらないということですか?
    非常に暴力的な言葉ですね。

    障害者がいらないと思ったことはないですが、この記事はいらないと思いました。

    • おちょくっているつもりはありませんが、絶賛してもらえる記事よりも、議論が生まれそうな記事を書くことを目的にしているのは確かです。人は誰かの意見に同調するときよりも、誰かの意見に反対する時のほうが頭を使って、自分の言葉で考えると思っているからです。一人一人の考える力が、世の中を変える原動力となると信じています。なので、ある程度反感を予測して、議論を生みそうな記事を毎回ひねり出しています。それが、このブログのスタイルです。
      それと、私は自分に偏見がないとは思っていません。私はそんな立派な人間ではありません。偏見を持っていますが、そんな自分を変えていきたいと思っています。(でも、モロッコ人という表記は、「女性」と同じ感覚で私は使いました。)

      確かに、「いらない」という言葉は行きすぎかもしれませんね。不快になる人の気持ちもわかります。
      それでも私は、いなきゃいいのに、と一瞬思いました。そこまで思ったからこそ、その後自己嫌悪に襲われたのです。
      そこまで思い切ったからこそ、障がい者についてここまで深く考え、言葉にして記事にしようと考えるまでに至ったのです。

  10. 一通り皆さんのコメントを読ませていただきました。初めてコメントさせていただきます。
    今回の件は、先生たちは時間にも気持ちにも余裕のあることだったけれども、生徒にとっては違った、という事が原因なのでしょうか。
    私は今イギリスで再婚して暮らしています。再婚相手には、元パートナーと住んでいる身体障碍(知的もあり)と重い自閉の二人の子どもがいます。
    時々、施設に入った重い自閉の方の子どもに会いに行きます。20歳を超えている子どもでも、親としては連れ出して楽しい時間を過ごさせようと思っているのですが、外では、時々周りの音に興奮して大声を出して走り出したりします。そんな時、私の子どもが小さかったら親として「危ないから近くに来て欲しくないと思うだろう」と思うのです。店員Aさんの意見が心の底からわかります。
    でも、障害児の親からすると違うんですね。 日本でも一時期、知的障碍者の親が一般学級に子どもを入れたいと希望することが間々ありました。それが子ども達にとってどう作用するかは分かりません。障碍者の側にも健常者の側にもです。
    人を障碍者、健常者として分けてしまうことはいけない事なのかも知れませんが、実際問題として、人には自分に出来る事出来ないことがあります。他人の不便を助けるにしても、出来ることを出来る時に、出来るだけする、というスタンスが一番自然なのではと最近思うようになりました。今回のリリーさんの体験は忙しい生活を送っている人が、余裕の無い時に遭遇した初めての体験だったので、色々戸惑うこともあり、もちろんイラッとすることもありだったのだろうと私は感じました。

    話が突然変わるのですが、先日スペインとポルトガルに行きました。二国ともエレベーターの設置などが他の国よりも遅れている印象を受け、そのせいか車椅子の人自体ほぼ見かけませんでした。日本は昔、障碍者が家にいても外に出すことすらあまりなかったと思います。恥ずかしながら、私は日本には障碍者自体が少ないのかと誤解していました。それが今では自由に出られるようになり、社会での認知も広がってきていると思います。

    身体障碍だけなら外から見てわかるのに、重い知的障害となると時々中毒者や精神的に問題を持っている人と申し訳ないですが見分けがつきません。だから人は不安を感じたりするのですし、彼らが一緒にいると自分のペースが狂ったりして予定調和にならなくなりイラッとします。それが彼らの家族をどんなに傷つける言葉か計り知れませんが、私にとってはそれが現実です。

    私は彼らの存在を否定したりしません。彼らがいることで心穏やかになる人もいるでしょうし。ただ社会がもっと、誰にとっても住みやすい世の中になればいいと思っています。まだまだこの社会はその過渡期だと思っています。

  11. 神奈川県相模原市障害者施設殺傷事件とは別に、アメリカ・ノースカロライナ州では、聴覚障害を患っていたダニエル・ケビン・ハリスさんが自動車を運転中、スピード違反を犯していたとして、パトカーに乗っていた警察官から停止するようハリスさんに命じました。
    しかし、ハリスさんは耳が不自由だったため、警察官からの停止命令を聞き取れませんでした。そして警察官は停止命令を無視し、運転を続けていたハリスさんを射殺してしまいました。
    スピード違反を犯した者が聴覚障害者であったとしても、警察は冷静に対処すべき責務があったはずだと思いますが、なぜ冷静に対処することができなかったのでしょうか?
    ハリスさん射殺事件については、おそらくアメリカ国内の障害者団体のみならず、カナダ・EU諸国など、アメリカ以外の西側諸国の障害者団体からも、事件を厳しく非難する声明が発表されているはずだと私は思うのですが、皆さんならどう考えますか?

  12. こんにちは、初めまして。
    いつも楽しく拝見させて頂いてます。
    妻がロシア系で13年目の国際結婚をしています。

    息子に知的障害があります。
    やはり、身内に障害を抱える者がいると世界観も全て変わってしまいました。

  13. 私はリリーさんがレッスン中に感じた事、また自己嫌悪した気持ちはわかります。
    オリンピックもそうですが、何かを身につけよう、能力を競おう伸ばそうという時、実力別にトレーニングしたり習熟度でクラスが分けられているには理由があるはずです。
    一緒にやりましょうというのは簡単ですが、障碍は無くても自分で出来る、チャレンジ出来る、刺激しあえるレベルで活動するのが良いのでは無いでしょうか。
    ハリスさんの事件、私は警察官を責められません。痛ましい事件ですが、聴覚障害があってもアメリカ(その州)では一人で何のサインも車に貼ることもなく運転させているのか、それともそれとわかる何かを警察官は見逃したのかと疑います。

  14. 知的障害付き自閉症の子を持つ親です。なぜ、マダムリリーさんは、こんなに叩かれるのでしょうか。とても正直で、ごく普通のこと、厳しい現実をを言っているだけではないですか。当事者でも、我が子の振る舞い、行動に対して、イライラするのだから、何も知らない人たちが、イライラするのは当たり前のこと。いいも悪いもありません。マダムリリーさんは、ことを客観的に見ているだけのこと。いや、むしろ普通の人よりも、事を真剣に考えておられると思いますよ。誰でも「障がい者はいらない」と思う気持ちは少しはあると思います。わが子が障害を持っているとわかって、悲しまない親がいますか。良かったと思う人がいますか。あえて、障がい者を欲しいと思う人がいますか。それも、「いらない」に近いことだとおもいますよ。障害は本人の責任ではない。生きる権利もある。しかしながら、生まれてきたからには、つらい現実を生きなければならない。わが子も、私たちが死んだあと、どう生きていけばいいのか。悪いやつらに騙され、一文無しになるかもしれない。娘だから、性被害の心配もある。施設内の暴行事件などもある。本人は理解力がないから、気をつけようもない。まあ、わが子の障害は出生前にはわかるはずもないが、もしわかったとしたら、迷わず中絶していたと思う。生まれたからには、愛情と責任を持って育てるけれども、情緒、感情の欠乏、知的な理解力のみならず、問題行動も数多いわが子が生きていくには、世の中は残酷です。生まれなければ、無理に生きる必要がない。高齢者のみならず、特に自分自身をコントロールできない知的発達障害者が増え続けると、誰がどうやって面倒をみるのですか。国、世の中は潰れてしまいますよ。私は当事者だから、他のあらゆる障害者に対し、理解もあるし、暖かい目で接します。でも、100%「障がい者はいらないという気持ちがない」とは言えません。

  15. はじめてコメント書かせていただきます。
    精神病系の施設で働いています。私が接するのは精神、知的、発達、認知に障がいを持つ方々です。
    色んなバッググラウンドを持たれており、年齢も20代から90代まで様々です。
    家族に障がいを持つ方の多くはその方を大事に思われるから強い口調で反対されることもあるでしょう。
    私の施設利用者の家族にはそういった方はあまりおられません。利用者が検査が必要であるような熱にうなされていても、お金がかかることをするなとおっしゃる方がいます。私はこんな酷い世界を知らなかった。日本には保険制度があるにも関わらず、障がい年金があるにも関わらず、です。

    私の施設では強度行動障害という暴力を振るう方がいます。
    怖いです。そこで働いてる職員ですが、怖いのはどうしようもありません。恐怖を感じるなと言われても難しいです。
    鍵のかかる何もない部屋から出ることができない人もいます。過去に殺人をされた方もいます。
    それらは全て、病気や器質的なもののためです。

    いなくてもいい、とは思いません。憎いとも思いません。人間は社会的動物であり、福祉というのは人間らしい取り組みだと思っています。
    ただ、居場所は限られてくるのではないかとも思います。
    社会的動物であるために、最大多数の最大幸福もまた求めていると感じます。
    施設の方々に少しでも幸せに過ごして欲しいので居場所は作っていくべきだと思いますが、なかなか難しいでしょうね。

    例の事件は連日テレビ報道されていました。
    施設ではテレビがあります。連日施設でも報道を見ることができました。利用者の方も見られていました。何を思ったかは聞いていませんが。
    例の事件が残酷だからといってチャンネルを変えるのを彼らの自由を奪うことになりますし。
    (もちろん、変えて欲しいと言われたら変えますよ。そういった意見は出ませんでしたが。)
    難しい問題ですね。

    人は思うことは自由ですが行動すると差別主義者のようにうつることがあります。
    このようにブログに書かれたことは勇気があると私は思います。知らないことを知らない、分からないことを知りたい、というのは大切なことだと思っています。

  16. 初めまして。
    軽度自閉症の者です。
    障害者への対応の仕方って難しいですよね。障害者にとっても自分の面倒くささが解っていたりすると自己嫌悪をしてしまったり、自分と性質や症状が異なる障害者に多少はイライラしてしまう事もありますから健常者にとってはなおさらだと思います。でも自分の生きたいって本能や意地もありますから他人によってやめられるもんではないんですよ。
    1つ気になるのは障害者を疎む人が多い割に排除するか健常者が不馴れなまま我慢の二者択一が多く、発達・知的障害を治せないという思い込みがはびこりすぎている事です。インターネットを検索すれば障害を治せた、あるいは症状が改善したという話を読めます。未来が昨日より、今より良くなると信じたいと思いたいですがいかがでしょう。
    野生の獣や発展が遅れた地域であれば障害者を殺さなければ生きていけないでしょうが、停滞ぎみとはいえ世界の五指に入る経済大国で扱いづらいから排除するという事が果たして健常者にとっても健全で普通なのか僭越ですが疑問を感じております。
    一人一人の生きたいが妨げられない社会になるように、両者の議論が活発になり見識が増えることを期待します。

  17. 私は医学が発達し、障碍者のかたの遺伝子異常が治るという意味で障碍者がいなくなればいいな、と思っています。
    そして、それはそんなに遠い未来でもないような気がします。一方で障碍者のかたの変異は人の次の進化に必要なものなのかもしれないという可能性も。変異のなかで、環境に適応したものが別種へ進化していくものなので。。。

  18. 母が視力、兄が知的障害を持つ者です。障害を家族に持つ扶養者だからこそきれいごと抜きに言いますが、著者の方の意見は極めて普通の反応でしょう。ひどいという当然の感情は出るでしょうが、現実問題として事実周囲の負担は増えるので、こっちは障害者だぞ!?と錦の御旗を振ってしまうと、周囲は手も足も出ません。例えば兄は計算が出来ないので、それでバスの運賃の支払いに時間を掛けさせるのはあまりに「配慮に欠ける」のでさせません。同時に時と場所を選んで兄が出来る範囲の方法で学習も兼ねてやらせます。それを、こっちは障害者だぞ、待って当然だと主張したら、周囲の方は言い返せますでしょうか。正しい言葉は、迷惑ではなく、困惑ではないでしょうか。

    当然私にも、幾分の負担は来ています。ジャッキーチェンの映画、邦題ファーストミッションというのが、実によく障害者の家庭を表現しています。

    私の中では、例えば電動車椅子に乗る人が歩道のど真ん中をビュンビュン進んだら、「危ないだろ、少し端を進め、配慮しろ」と注意出来る世の中が当たり前であり、車椅子の人がどうにもならない段差に困ったら、速攻で周囲の人が必要分のサポートをするのが当たり前になって初めて「障碍者が社会に溶け込んだ」と思っています。過剰な優遇はしれません、同時に不遇な目にも合わさせません。

    障害者を生活の中で感じない人の方が圧倒的に多いと思いますが、はっきり言うと、それは社会の一部に当然のように存在する光景が実現できていないからです。兄が成人になって初めて知りましたが、障害者のための地域作業所は国の障害者用の職場ではなく、実際は保護者が障害者を預けて解放される為の託児所みたいになっています。保護者も施設が無いと困るので態度が甘くなり、世間も障害施設は善意の塊みたいに思うので「ちゃんとやってんのか?」という厳しい目が全くなく、むしろ煩わしいので関係を避けるようにさえ感じ、結果起きたのが所長が好き放題公金を横領して障害者を妊娠させ、コイツが捕まっていないのが不快でなりません。ただの示談で終わってしまいました。

    分かりますでしょうか、障害者に対する、「無関心」が問題の根底にあります。付き合うと負担がある。なので障害者を扱うのを希望する人でよろしくやっててくれ、みたいな部屋の隅に物を寄せて足場を確保し、その隅が大惨事になっている事を確認しません。
    ある東大生が、普通の子を素晴らしい学習法で劇的な成績に上げさせたそうですが、その知恵を、普通より学習が難しい子が如何に生活だけでも不自由ない程度に知識を得るかという学習メソッド、会社が障害者を有効活用する人材メソッドを作ってくれないかと本気で思いました。障害の程度もありますが、簡易な仕事なら出来る事もあります。月4万の稼ぎでも、彼らで出来る範囲の労働であり、立派な生産者に成り得るのです。
    リオ五輪で、パラリンピックの選手も随分と関心を持たれ、ある「24時間だけ」関心を持たれる日よりは前進したかなと思った次第でした。

  19. 知的障害者の問題は、周囲の人間に 知的障害者の思考経路を いろいろ吟味したり、おもしろがったり(興味深い、新しい、という意味で)する能力が乏しいことが原因のように感じます。

    もっと社会が余裕を持ち、広く目を開いて 障害者の特性を見つめないと、自分や社会の視野・考えを広げてくれる せっかくのチャンスを台無しにしているのではないでしょうか。

  20. 人の記事をみて被弾する人の方が障害者みたい
    自分の事を書かれてるかのように怒っちゃって
    自己紹介乙です
    こんな中間障害者が居るから
    医療費は圧迫され
    健常者にいわれのない我慢を与えて
    当たり前な顔で人権がーとか言えるんでしょうね。
    わたしならそんなこと恥ずかしくて出来ません
    健常者ですから

  21. はじめまして。
    こちらのサイトを知ったのは最近で、投稿には遅いですが書かせてもらいます。

    別に障害者が迷惑とか嫌いなのは、自由なのではないでしょうか?
    そして、不謹慎かしれませが、それぐらい別に問題があるとは思えません。
    むしろ迷惑と感じる人たちは何故、社会に高齢出産を禁止することを訴えないのか不思議でなりません。
    残念ながら、心臓・耳・自閉症・知的など出会ってきた障害者は高齢の親の子供ばかりでした。

    私は知的障害の兄や後天的に障害者の母がいます。
    そして、精神病院で短期間働きました。
    一番酷いのは当事者の前では善良な振りをしてるだけで酷いことを言っている人間のほうだと思います。
    該当病院・保健所・国内各団体にメールを送ったり、twitterでも看護師の言っていた虐待・悪事・悪行・不正を晒してますが、素晴らしく今年の 相模原市の犯人と同じ思考です。

    あまりの酷さに反論すると
    「金が目的か、看護師は資格が身分証明書やから、何して言ってもいいんや」
    「あんたの言うことなんか誰も信じひん」
    「信じるやつは障害者」
    と言われたので、安心して振り撒いてます。

    自ら痛々しく「仁みたい」と自画自賛をし、
    「患者家族は感謝が足らない」
    「障害者を一人でも親族から出した家系は、医者が診断してないだけで先祖代々、障害者の家系」
    阪神淡路大震災で病院から派遣されたという主任は、福島の震災の日に
    「阪神のとき行ったら、感謝されて美味しいもの食べさせてもらって、ゴルフさせてもらった。 神戸落ちぶれてざまあ、姫路は都会」
    とハッピーなことを、関係者がいることを知らずに話しまくっていました。

    最初から、知っていれば苦々しくは思いませんが、 立派・感謝などそういう風に思わせて、実は…というのが一番腹が立ちます。

    なんと書いたら、伝わるでしょうか?

    馬鹿にしているもの、嫌っているもの。
    そういった者を騙して、得をする行為が腹立ちます。

    そして、差別する側もまた金コネ高い身分がなければ、一般家庭レベルではされる側なのです。

    詳しくはメール出します。